しかし、そのような慎重な物言い癖は「何かの指導をする立場の人間にとって」大きなデメリットを生んでしまう可能性を孕んでいると考えられます。
例えば自分がその分野に全くのド素人で、短期的にある成果を挙げる必要が出てきたときに
「その問題には〜な可能性と〜な可能性があって、〜とも考えられるし、〜についてはまだよくわかっていない。だからあなたは〜すべきかもしれないし、〜した方が成果が出る可能性もある。」
という助言をされたとして、どのように感じるでしょうか?あなたはその分野に対して全くのド素人です。この記事を書いている私なら「そんなのどうでもいいから、とにかく何したらいいんですか?」と思ってしまう気がします。
「とにかく成果が挙がればそれで良いから、自分で考えられるようにならなくても良い、別にその分野の指導者になりたいわけでもない、とにかくある一定の期間内にその成果を挙げられれば悔いはない。」
実際、このように考える人は少なくないのではないでしょうか?
「結婚式までに痩せたい。その後はどうでもいい。笑」「大学で競技を続けるつもりはないから、あと1年でインターハイにいけるような選手になりたい」「自分で考えてスポーツをやることが凄く苦手だけど、結果を出さないとまずい。生活がかかっている。」
具体例を出すとこんな感じでしょうか?
こんな思いを抱いている選手やクライアントの願いに寄り添って、成果を挙げる手伝いをすることは、指導者の役割のはずです。
そのような場合に
「〜には〜の可能性や〜の可能性があって、その解決策としては、〜や〜が有効な場合がある。〜も大事だとは言われているけど、まだ確証は得られていない。なので、〜を実践してみるのが良い気がします。」
と、言われた場合と
「〜が効くということが分かっています。必ず成果に繋がるので、一緒に頑張りましょう!」
(「〜」は、指導者側が熟考の末、現時点で最良だと判断した内容)
と、言われた場合、受け手側としてはどちらが都合が良いでしょうか?その分野に全く詳しくなくて、とにかく成果を挙げられればそれで良い場合です。
後者の方がやることが明確だし、やる気も出る、信じるものが一つで、自分でアレコレ考える必要がなく、行動に100%自分の努力を注ぐことができる…と、感じる人は多いのではないでしょうか?
「自分の頭で考えられる選手やクライアントを育てたい」とする指導者は多いように考えられますが、それは必ずしも指導される側の望んでいることとはかけ離れている場合はあるはずです。
自分で考えられない選手はダメ…だというのはあくまで指導者側のエゴであって、すべての人に押し付けるものではないでしょう。
「自分ではできない仕事は、対価を払って外部に委託してより楽をする。」のは当たり前の考え方です。
だとすれば、スポーツの指導、選手の「自分の努力は最低限にして、成果さえ出せれば良い。行動に100%の集中力を使って、実施内容は指導者に委託する。」という考え方は決して否定されるべきではありません。